あなたの「道」は、わたしには見えない by 古川不可知
https://gyazo.com/dd19fd6f2085f6f5a0504a805e0583f7
以下、引用はすべてこの記事より。
わたしにとっての「道」が他者にとっての「道」ではないということが、山のなかでは非常にはっきりするんですよね。例えば「シェルパ」の人たちが「あそこに道があるじゃないか」と言っても、わたしには氷の壁にしか見えないということがあり、逆にわたしが普通に歩いていける「道」はポーターが通れず、大きく回り道をすることもあるわけです。同じような物理的環境を前にしても、何が「道」であるか、そこにどんな「道」があるのかは、個々の身体によって異なる立ち現れ方をするのだということが、とても面白く感じられたんです。
例えば、わたしが下宿していたポルツェ村のロッジの「母親」から、わたしが通行するのが難しいと思われるルートに関して「道はない」と言われたことがあります。わたしのことをよく知っているからこそ、「君にとって道ではない」という意味合いで言ってくれるわけです。
日本で最も著名なアプリについて、ひとつポイントを挙げるとすれば、人がたくさん歩くルートは太い線になる仕様になっていることです。登山道というものは、そもそも人が歩けば歩くほど登山道として確立されていく──つまり、前の人が歩いていった足跡を後から歩く人が辿ることで道になっていくという側面があるわけですが、それがデジタルな空間においても「人が歩くと道になる」というかたちで実装されている点には、興味を引かれます。次から次へと人が辿り続けることで登山道であり続けるということが、デジタルのレベルでも表現されているということですよね。
「山」とは何か、という問いは実は非常に難しいし、やはり感覚的な部分が大きいのだと思います。例えばヒマラヤにおいては、基本的に標高6,000mより低い山というのは、山じゃないんですよ。わたしが普段滞在しているポルツェ村は約3,800mですので、4,000mを越えても彼らにとっては丘のようなものなんです(笑)
逆に言えば、万人にとって標準的な「道」などというものを疑い続けるということ、そんなものは存在しないんじゃないかと考えていくということでもあります。近代都市において排除されているものに目を向けるきっかけにもなるかもしれない。例えばわたしも、山から下りてネパール首都のカトマンズに戻ると、地面がすべて平らで逆に不安になるんです。山の「道」ではほぼすべての動作が登るか下りるかですし、目に見えているものもすべて斜めですので、そうした環境に慣れて都市部に戻ってくると、とことん平らなので逆に怖くなる。あまりに良心的な物言いになってしまうかもしれませんが、他の人にとっては別な世界が立ち現れているかもしれないと想像する、こうした思考を共有していくことによって、すこしだけ世界が優しいものになるんじゃないか、と思っているところです。
「道」も「山」も、自分の中で「こういうもの」とそれなりに固定化した認識があるけれども、まるごと相対化されるような刺激的な話だなあ。 集団を構成する個々人が画一的であればあるほど、自分と異なる視点を持つ相手への想像力を失わせる場が形成されていって、それが不寛容にもつながっていくよなあ、と思った。